ビデオチャットばっかりしてると人間の印象がどんどん平べったくなって、たまにコンビニへ行くと店員さんの立体感にびっくりしませんか?ビデオチャットばっかりしてると人間の印象がどんどん平べったくなって、たまに宅配便が届くと配達員さんの立体感にびっくりしませんか?
そもそも顔をつきあわせないと会ったことにならないっていうのが、もう古いよね。
現実の代替としてのビデオチャットはやがて終わって、いつの日かZOOM飲みとかあったねって笑えると思う。ほんと、こんなやりきれない日のことをさ、いつか笑える日がくればいいよね。
川崎は、ずっと雨だった。雨戸も閉めっぱなしだった。この部屋は窓がひとつなので、雨戸を閉めると昼なのか夜なのかわからなくなる。昼なのか夜なのかわからない部屋にずっとひとりでいると、静かな宇宙船に乗って、どこか遠くへ運ばれているような気がする。なんで、宇宙船で風邪をひくんだろう。
受け入れようが受け入れまいが変化はしてしまっているのだから、それは受け入れることを選んだ者が話している言葉だ。諦めた者が話している言葉だ。逃げた者が話している言葉だ。流された者が話している言葉だ。弱い者が話している言葉だ。そして、その弱さに寄り添う言葉なんだろう。
ハッピーバースデー・トゥー・ユー・ハッピーバースデー・トゥー・ユーを2回ぶん歌うとちょうどいいって、誕生日のたびに手洗いを思い出さないかな?
手間と栄養と満足感のギリギリのラインを狙った至高の在宅勤務飯を探求しつづけた結果、コンビニのサラダを2袋あけた皿の上に冷凍食品の焼肉を乗せたものにたどりついた。
離れてもつながるとは、顔を見ることではなく、それぞれの時間を生きること、その多様な生を認められるくらい信頼すること。想像すること。わたしが、わたしを尊重すること。ひとりぼっちとは、孤立ではなく、非同期な通信なんだ。
目に見えないものの存在を想像することを通して、わたしたちはいまかつてないほど解像度の高い世界に生きている。
ぜんぜん別の場所にあるものが、重なって見える。いま起こっていることが、いつか体験したことのように感じられる。速すぎてよく見えないけど、出会った瞬間に別れている。それを繰り返している。からだの輪郭が高速に振動して、中と外が入れ替わっている。なんども死んでは、生まれ変わっている。それはそれとして、わたしたちはきょうも暮らしていかないとならないから、便宜上こんなことをビデオチャットと呼んでやりすごしているわけなのだが。